1.『猫の毛』
道端で猫を拾った。丸くてふかふかとして、どことなく品のある猫だった。猫はとても暖かく、僕はすぐに猫のことが気に入ってしまった。僕はその猫を家に連れて 帰った。
猫はミルクをよく好み、僕にもとてもよくなついてくれた。休日はいつも猫と遊んで過ごした。
猫は少しずつ大きくなっていった。
ある日、
「この家狭いから引っ越そうよ」と、僕より大きくなった猫が言った。
そのようにして僕と猫は大きな部屋へと引っ越した。
新しい部屋はとても広かった。猫が自由に遊べるようにと、なるべく大きな部屋を選んだのだ。インド象が7匹入ってもまだ余りそうだった。猫はその部屋でとてもくつろいでいるようだった。猫が嬉しそうなので僕も満足した。そしてまた休日には猫と遊んで暮らした。
猫はまた、少しずつ大きくなっているようだった。
僕が猫の前足の肉球をクッション代わりにして昼寝をしていたら
「この部屋も最近何だか狭くなってきたよね」と、猫が言った。
僕はまた大きな部屋を探すことにした。
僕はとても苦労して新しい部屋を探してきた。今度の部屋はこれ以上無いくらいに大きな部屋だった。ジャンボジェット機を2つは置いておけるくらいに広かった。
「ここならどう?」と、僕は猫に聞いた。
「うん、広くてとっても良いね」
猫はとても喜んでくれたようだった。僕はほっと胸を撫で下ろした。
最近は一緒に遊んでいると踏み潰されそうになるので、休日も猫と遊ばなくなった。僕は寂しかったが、猫はもっと寂しそうだった。でも、夜は猫のお腹にくるまって眠った。僕は幸せだった。猫もそれなりに幸せそうだった。
ある日、僕が巨大な部屋に帰ると玄関をうす茶色の毛が壁となって塞いでいた。猫のしっぽの先端が玄関に飛び出し塞いでいるのだ。猫は部屋いっぱいになるほど大きくなっていた。
猫は部屋にぎゅうぎゅうに詰まっているはずなのに、くるりと器用に反転し僕のほうを向いていった。
「この部屋は狭過ぎるよ」
中国の式典なんかで使いそうな“どら”をシンバルにしてかき鳴らしたような声だった。そのうえ息がやたら魚臭く、その風圧に弾き飛ばされるんじゃないかと思った。
「ねぇ、ここより大きな部屋なんて借りれないよ。ここを借りるのだって、とても苦労したんだ」と僕が言うと、猫は「フーッ!」とうなった。
山のように大きな―――控えめに表現して―――猫にこんな声でうなられた日にはスーパーマンだって裸足で逃げ出すに違いない。
僕だってもちろん逃げ出したかった。何でこんな事になったのか僕にはさっぱり分からなかった。
とにかくこれ以上猫と暮らすのは限界だと思った。
「ねぇ、君に部屋の中は狭すぎるから外で暮らしたらどうだろう?」と、僕は言った。
熱風のような鼻息を吐きながら猫はなにやら考えているようだった。何をどうすることも出来ずに、僕は玄関の前にただ立ち尽くしていた。玄関のすぐ外には郵便受けがあり、中には夕刊とどこかのダイレクトメールが入っていた。読む価値も無いものばかりだった。
ふと気がつくと、目の前を塞いでいた毛の壁がなくなっていた。残されたのはガランとした部屋と、耳が痛くなるような静寂だけだった。
猫の姿はどこにも見当たらなかった。
あんな大きな体がどこに行ってしまったのだろうか。あれだけ大きくてはどこにも動きようが無いはずだった。玄関からだって出れないし、屋根をすっぽりと外してしまったって出れるかどうか怪しいところだ。
僕の頭は数秒の間混乱し、呆気に取られたまま何も無い空間を見つめていた。
しばらくして気を取り直すと僕はこう考えた。
猫は消えてしまったのだ。“でも”も“しかし”も入り込む余地の無い完璧な消失だ。世の中にはそういった完璧な消失というものが存在するに違いない。巨大猫的世界に於いては完璧な消失なんて当たり前なのかも知れない。水道をひねれば水が出るのと一緒だ。猫は大きくなったら消えていくのだ。そうでなければ、世界が巨大な猫に飲み込まれ消えていってしまうのかも知れない。
無駄に広く、何も無い部屋で僕は巨大な猫が次々と消えていく世界を想像した。
床には猫の残していった毛が数本落ちていた。完璧な消失と言えど消失以前に抜けた毛までは巨大猫的消失世界に連れて行けなかったらしい。
僕はその数本の毛を拾って、指で摘まんでみた。残された猫の毛を見ているとなぜか無性に悲しくなってしまった。巨大猫的消失が完璧であればあるほど、残された猫の毛が僕の心を刺した。
僕は涙を流しながら消えた猫を想い、巨大猫的消失世界を憎んだ。なぜそこまで憎むのかはわからなかったが、他に憎むものがなかった。
残された沈黙だけが僕の救いだった。